プロフィール

山下大五郎 略歴

1908(明治41)年―1990(平成2)年

生涯と画業

山下大五郎は、1908(明治41)年10月2日、現在の神奈川県藤沢市に生まれた。晩年の安曇野作品で広く知られるが、その画業は安曇野だけに限られない。静物、家族と室内、海辺、開墾地、民家、農村、山岳などを描き、北海道から九州まで各地を訪ねながら、自然と人々の暮らしを見つめ続けた。戦前の官展、戦争とソ連による抑留、復員後の立軌会創立、各地での制作、池田町相道寺に滞在しながら深めた安曇野での仕事は、一つの画業の中で結びついている。

山下の作品に通底するのは、目の前の景色を名所として紹介するのではなく、そこに流れる時間と、土地に生きる人々の営みまでを一つの画面に捉えようとする姿勢である。雄大な山だけを切り離さず、その麓の田畑、家々、道、樹木を配して、自然と生活の関係を描き出す。その視線が豊かに結実した場所が安曇野であった。

絵画への出発――原精一、萬鉄五郎との出会い

山下は代々続く農家に育ち、父は村長を務め、家には文庫蔵もあったと伝えられる。農作業の移り変わりと季節の巡りを身近に感じ、書物にも親しんで成長した。のちに農村の民家や耕地、収穫の野へ心を寄せた背景には、こうした幼少期の経験があったと考えられる。ただし、その風景は幼い日の記憶の再現ではなく、各地を実際に歩き、自ら観察した景色を色と形で組み立てたものである。

少年時代の山下にとって重要な存在となったのが、近くに住み、のちに洋画家となる原精一であった。幼少期から親交を結んだ原は、山下を萬鉄五郎へとつないだ。神奈川県立湘南中学校在学中、山下は原の紹介により茅ヶ崎にいた萬のアトリエに出入りし、画家への志を深めていった。日本近代洋画の革新を担った萬の仕事に若くして触れたことは、対象を表面どおりに写すだけでなく、色彩と形態を画面の中で組み立て、絵画として自立させることを考える契機になったとみられる。原との友情はその後も続き、のちの欅会の結成にもつながっていく。

1926(大正15)年、山下は東京美術学校(現・東京藝術大学)図画師範科へ入学した。在学中は田辺至に学び、先輩の林武からも指導を受けた。ここで素描、構図、色彩、油彩技法の基礎を身につけるとともに、対象に正面から向き合う姿勢を養った。1928(昭和3)年、在学中に《卓上静物》が第9回帝国美術院展覧会(帝展)へ初入選する。学生時代の入選は、山下の確かな観察力と造形力が早くから認められていたことを示している。

1929(昭和4)年に卒業したのち、山下は美術教師を務めながら制作を続けた。1932(昭和7)年、24歳で教職を辞し、画業に専念する。東京・中野の江古田に居を定めた当初、生活は容易ではなかったが、家族や室内の情景、静物を描き、日常の中に絵画の主題を見いだした。のちに広大な田園や山岳を描いても生活の気配が失われないのは、この時期に培われた身近なものへの視線と無関係ではない。

官展での評価と戦前期の制作

1930年代、山下は官展への出品を重ね、洋画家としての地歩を固めていった。1937(昭和12)年、第1回新文部省美術展覧会(新文展)に《中庭の窓》を出品して特選となり、1939(昭和14)年には第3回新文展の《おもて》で再び特選を受賞した。二度の特選は、山下が構成力と描写力を備えた画家として公的な評価を得たことを示す。1942(昭和17)年の第5回新文展には無鑑査で出品した。また、1941(昭和16)年には第1回創元会展へ《早春》《家庭風景》を出品し、新たな発表の場にも参加している。

当館所蔵の1937(昭和12)年《犬吠埼灯台を望む》と《バラの花》、1940(昭和15)年《残雪》からは、海辺、花、雪の残る山野という異なる対象に、戦前から幅広く取り組んでいたことがわかる。灯台のある遠景では空間の広がりを、花の静物では器や背景を含む画面の均衡を、残雪の風景では季節の境目にある大地の表情を捉えている。晩年の安曇野作品に見られる、遠景と近景を安定して結ぶ構成、季節の気配を色調で表す感覚は、突然生まれたものではない。若い時代から繰り返された観察と試行の上に築かれたのである。

戦争、ソ連による抑留、そして復員

画家として歩みを進めていた山下の生活は、戦争によって大きく断ち切られた。1944(昭和19)年、36歳で召集され、終戦後は、ソ連による抑留のもと、カスピ海沿岸で約3年間の捕虜生活を送った。終戦を迎えても帰国できず、家族と引き離され、自由を奪われた環境に置かれた経験は、画家としても一人の人間としても、きわめて重い出来事であった。

1948(昭和23)年に復員したのち、山下は抑留体験に関わる人物や、鉄条網の内側に置かれた人々を題材とする作品を描いている。しかし、戦争と抑留を直接扱った作品や、それについての言葉は多く残されていない。だからこそ、限られた作品を画業の傍流として扱うのではなく、山下の生涯に生じた断絶と、その後の再出発を考えるための重要な手がかりとして見る必要がある。

復員後の風景画を、抑留体験だけから説明することもできない。山下は過酷な記憶を抱えながら再び日本の土地を歩き、樹木や田畑、家々、そこで続く生活へ眼を向けた。制作を再開し、季節の移ろいと人の暮らしを描き続けたこと自体が、戦後の画業に大きな意味を持つ。

立軌会の創立と戦後の再出発

1949(昭和24)年、復員の翌年、山下は牛島憲之らとともに創元会を離れ、立軌会を創立した。画家たちが自主的に作品を発表し、互いの制作を問い続ける場を築こうとしたのである。戦前に官展で二度の特選を受け、無鑑査出品者となっていた山下が、すでに得た評価にとどまらず、新しい会の創立へ踏み出したことは注目される。立軌展は、以後の山下にとって主要な発表の場となり、山下は創立会員として長く同会を支えた。

当館所蔵の《開墾地風景》(1952年、第4回立軌会展出品)は、戦後の歩みを示す重要な作品の一つである。開かれた土地を描くこの主題には、自然を眺めるだけでなく、人が土地に働きかけ、暮らしを築いていく場を見つめる山下の関心が表れている。1950年代以降、山下の制作は農村、工場のある風景、北海道の風景などへ広がった。1964(昭和39)年には、原精一ら親しい画家たちと欅会を結成し、立軌会を軸としながら複数の発表の場で具象絵画を追求した。

山下にとって具象とは、目に見えるものを正確になぞることではなかった。現地で受け取った印象を持ち帰り、形を整理し、色を選び、画面全体の釣り合いを幾度も確かめる。実景を土台としながら、絵画として必要な秩序をつくることが大切であった。立軌会での継続的な発表は、流行に合わせるのではなく、自らの眼と方法によって具象表現を深めるための支えとなった。

日本各地の農村、民家、道を求めて

戦後の山下は、北海道から東北、関東、北陸、近畿、中国、九州まで各地を訪ねた。山下が求めたのは、名勝として整えられた眺めだけではない。風雨に耐えてきた民家、集落へ続く道、耕された田畑、実りを待つ野、土地の目印となる樹木、その背後に連なる山々など、人々の生活によって形づくられ、季節によって表情を変える場所であった。

当館の所蔵作品には、《長崎風景》《箱根風景》《丹波秋色》《丹波の秋》《丹波の家》《会津街道にて》《会津にて》《津軽陽春》《みちのくの蔵》《出雲の野》《簸川野雨後》《越後風景(たもの木)》《越後田園》《戸隠の山里》《戸隠への道》など、多様な地名が並ぶ。1960年代から1980年代にわたるこれらの作品をたどると、山下が一つの土地に閉じこもるのではなく、日本列島の各地を歩きながら、自らの主題を探し続けたことが見えてくる。

丹波では秋の色づきと民家を、会津では街道や集落を、津軽やみちのくでは春の光や蔵を、出雲や越後では雨後の野や田園を描いた。同じ農村であっても、家の形、道の曲がり方、畑の区画、樹木の立ち方、空と山の距離は土地ごとに異なる。山下はそれらの違いを観察しながら、細部を説明的に並べるのではなく、その土地を成り立たせている大きな構造を画面に捉えた。

人物が大きく描かれない風景にも、人の存在は感じられる。耕された畝、水田、収穫を待つ畑、屋敷林、道や蔵は、そこに暮らす人々の営みを示す。山下の「日本の原風景」は無人の景観ではなく、自然の中で人が働き、住み、季節を迎えてきた生活の風景であった。この視点が、のちの安曇野で山と田園を結ぶ。

安曇野との出会い

1970年代後半、60代末から70歳頃の山下は、長野県大町市、安曇野、池田町、千曲方面を訪ねるなかで、信州・安曇野の風景と出会った。とりわけ池田町側から望む北アルプスと、その手前に大きく広がる田園や集落に強く惹かれた。遠くに雪をいただく山々が立ち上がり、その下に田畑、屋根、道、樹木が重なって広がる景観は、山下が各地の旅を通して探し続けてきた、自然と暮らしが一つになる主題にふさわしいものであった。

山下は安曇野を一度訪れて代表的な眺めを得ただけではなく、晩年のおよそ10年間、繰り返し足を運んだ。田植え前後の水田、初夏の緑、実りの季節、秋の色づき、冬を前にした野、新雪をいただく山、朝や夕方の光など、同じ土地が季節と時刻によって見せる変化に向き合った。安曇野は山下にとって、旅先の一つから、長年の主題を深める重要な制作地へ変わっていったのである。

池田町相道寺・宮澤菊男宅での宿泊

山下と安曇野との関係を考えるうえで欠かすことのできないのが、池田町相道寺の陶芸家・宮澤菊男との交流である。山下は妻とともに宮澤菊男宅に宿泊し、そこを安曇野を訪ねる際の滞在と取材の足場とした。つまり山下は、外から短時間だけ風景を眺めて立ち去ったのではない。地域の人の家に身を置き、朝夕の光や天候の変化、農作業の進み方、集落の日常に触れながら、安曇野の風景を見つめたのである。

関係者の証言によれば、宮澤家は山下夫妻を親しく迎え、宿泊代を受け取らずに滞在を支えたという。山下と宮澤は、安曇野の自然や芸術について語り合ったと伝えられる。こうした交流は、作品のどの部分が誰の言葉から生まれたかという単純な因果関係で測れるものではない。しかし、宮澤家での宿泊が、山下の安曇野制作を現実の生活面から支えた重要な基盤であったことは見落とせない。

宮澤菊男は、池田町相道寺の土と火に向き合い、相道寺焼の再興に力を注いだ陶芸家である。山下が油彩によって土地の風景を描き、宮澤が陶によって地域の土を形にしたことを考えると、二人の交流には、表現の分野を越えて同じ土地の自然と生活を見つめる者同士の結びつきがあった。山下の安曇野作品を、北アルプスの美しさだけでなく、土地の暮らしや地域文化を含むものとして見るとき、宮澤菊男と相道寺の存在はとりわけ重要になる。

このため、大町山麓美術館では山下大五郎の作品とともに相道寺焼を展示している。それは二つの分野を偶然並べるためではない。画家が地域の人に迎えられ、滞在し、土地を見つめて描いたという歴史を、絵画と陶芸の双方から伝えるためである。宮澤菊男宅での宿泊という具体的な事実を知ることで、山下の安曇野は単なる眺望ではなく、人と人との交流によって支えられた、生きた制作の場所として見えてくる。

安曇野作品の展開と円熟

当館の作品資料を年代順に見ると、安曇野への継続的な取材がよくわかる。《安曇野初夏》(1978年)、《安曇初夏》(1979年)、リトグラフ《安曇野春秋 田植え》(1980年)、《安曇野冬近し》《安曇野の夕》(1981年)、《安曇野の五月》《安曇野の晴れた日》(1982年)、《安曇野春風》(1984年)、《安曇野の朝》(1985年)が並ぶ。また、同時期には《みのりの野》《アルプス新雪》《5月の風景》なども描かれ、季節、時刻、天候への細やかな関心が読み取れる。

これらを併せて見ると、雪解けから田植えへ、初夏から実りへ、秋から冬へという一年の循環が浮かぶ。《みのりの野》では収穫期の大地が、《安曇野冬近し》では冬を迎える野が、《アルプス新雪》では山に訪れた季節の変化が捉えられる。《安曇野の朝》と《安曇野の夕》は、同じ地域でも時間が変われば、色と空気が大きく変化することを示す。山下は安曇野を一つの固定した姿にまとめず、季節の循環そのものを描こうとしたのである。

1979(昭和54)年には《安曇野田植え》が長野県信濃美術館に買い上げられた。1983(昭和58)年、立軌展35周年記念出品作《安曇野春風》によって第7回長谷川仁記念賞を受賞し、安曇野作品は山下の円熟期を代表する仕事として評価された。1985(昭和60)年には銀座・日動画廊で受賞記念展が開かれ、1987(昭和62)年には『山下大五郎画集』が刊行された。長く各地の農村と山野を描いてきた経験が、安曇野において豊かな実を結んだのである。

画風――構成、色彩、絵肌、空気

山下大五郎の画風は、しばしば清澄という言葉で表される。油彩でありながら重く濁らず、水彩を思わせる明るさと透明感を帯びる作品が多い。だが、その穏やかな印象は、見たままを軽やかに写した結果ではない。山、野、家、木、道をどこに置き、縦と横の広がりをどのように釣り合わせるかという、堅実な構成上の判断が画面を支えている。

山下は実景を前にしても、すべてを同じ重さで描き込むことはしなかった。形を整理し、距離を組み替え、必要な色を選び、画面の中にもう一つの秩序ある空間をつくる。遠景の山々は大きな面として安定し、近景の田畑や草木には細かな動きが与えられる。家々や樹木は、山と野をつなぐ役割を果たす。画面の静けさの内側には、現地での観察と、制作室での検討を重ねた知的で粘り強い仕事がある。

絵肌、すなわちマチエールにも特徴がある。絵具を一様に厚く盛るのではなく、重ね方や筆触を変えることで、土、草、木、雪、空の質感を描き分ける。色彩は華美ではないが、灰色や褐色の中にも青、緑、黄、赤が響き合い、画面を沈ませない。とくに安曇野作品では、北アルプスの冷たい白や青と、田畑の緑や黄土色、家々の温かな色とが調和し、山麓を満たす澄んだ空気が感じられる。

山下の風景には、劇的な事件や誇張された感情はほとんど描かれない。雪が解け、田に水が入り、苗が育ち、野が実り、山に再び雪が来る。その繰り返しが、光と色の変化として静かに示される。画面から生まれる叙情は、土地を美しく飾る感傷ではない。長い時間をかけて対象を観察し、自然の中に続く生活の尊さを確かめたまなざしから生まれている。

静物、人物、水彩、版画

山下の仕事を風景画だけで捉えることはできない。当館所蔵の《椿》《ばら》《木槿の花》《アネモネの花》《水仙》《がくあじさい》などの静物画では、花の華やかさを競うよりも、茎や葉、器、背景、余白の均衡が見つめられている。一輪の花と広大な安曇野は規模こそ異なるが、対象をよく観察し、色と形の秩序へ置き換える点で、同じ画家の仕事である。

《少年》《むぎぶえ》などの人物を含む作品、水彩の《越後田園》《田植えの頃》《浅草三社祭》、リトグラフの《安曇野春秋》《北陸三景》は、表現が油彩の山岳風景だけではなかったことを示す。水彩では紙の白さを、版画では整理した形と色面を生かし、身近な生命、土地の暮らし、季節の空気を追い求めた。

同題・類題作品から見える制作

山下は、同じ土地や季節、花に繰り返し向き合い、同一または近い題名を複数の作品に用いた。当館の作品台帳にも、寸法の異なる1984(昭和59)年の《安曇野春風》が2点あり、《椿》も複数所蔵されている。《安曇野初夏》と《安曇初夏》、《アルプス新雪》と《アルプス新雪の頃》のような類題もある。これらは題名が同じ、あるいは似ていても、それぞれ別の画面を持つ作品である。

同題・類題の存在は、山下が構図を機械的に複製したことを意味しない。同じ主題を異なる大きさで試み、山の位置、田畑の広がり、光、季節の色を変えながら、画面を探った軌跡と見ることができる。似た作品を比べれば、山下が何を残し、何を変えたのかが見えてくる。

一方、作品を調査し紹介する際には注意が必要である。題名だけで同一作品と判断したり、一点に記された制作年や展覧会歴を同名作品すべてに当てはめたりすることはできない。画面、寸法、技法、署名、裏書、画集や図録、展覧会記録などを、作品ごとに照合しなければならない。たとえば、1983(昭和58)年に受賞した《安曇野春風》と、当館が所蔵する1984(昭和59)年の同題作品は、題名だけから同一視することはできない。当館では、一点一点の来歴と特徴を確かめながら、山下の画業をより正確に伝えていく。

回顧展と池田町立美術館での企画展

1990(平成2)年3月、東京セントラル美術館で「日本の叙情詩 山下大五郎回顧展」が開催され、初期から晩年までの仕事が広く紹介された。その約2か月後の5月13日、山下は81歳で死去した。最晩年まで制作を続けた山下の画業は、没後も作品を所蔵する美術館、画家と交流した人々、地域の関係者によって顕彰されてきた。

なかでも、山下の重要な取材地となった池田町で開かれた企画展は重要である。2010(平成22)年、池田町立美術館(現・北アルプス展望美術館)では、山下大五郎の画業を紹介する企画展が開催された。山下の仕事が、その作品の主題となった土地で改めて受け止められた意義は大きい。

池田町は、山下に美しい眺望を提供しただけの場所ではない。宮澤菊男宅での宿泊と交流があり、地域の暮らしの中に滞在しながら、季節の異なる風景を繰り返し描いた場所である。その池田町の美術館が山下の企画展を開催したことは、画家と地域との結びつきを公に確かめ、次の世代へ伝える営みであった。現在の北アルプス展望美術館へと続くこの顕彰は、山下の安曇野作品を地域文化の歴史の中で考えるうえでも欠かせない。

大町山麓美術館で見る山下大五郎

大町山麓美術館では、安曇野を描いた油彩を中心に、1930年代の初期作品、人物、静物、日本各地の農村と山岳、水彩、パステル、リトグラフまで、山下大五郎の作品を幅広く収蔵・展示している。当館の作品と関連資料を通して、《残雪》や《犬吠埼灯台を望む》から《開墾地風景》へ、丹波、会津、津軽、出雲、越後、戸隠などを経て、晩年の安曇野へ至る長い道筋をたどることができる。

一つの美術館で異なる年代、地域、技法の作品を見比べると、山下が安曇野だけを突然描き始めたのではなく、若い頃から磨いてきた構成と色彩、日本各地で深めた農村へのまなざしを、晩年の信州で結実させたことがわかる。また、複数の《安曇野春風》や《椿》を比較することで、一つの主題を繰り返し見つめ、わずかな違いを探りながら制作した姿も浮かび上がる。

当館で相道寺焼をあわせて展示することも、山下の作品を地域の歴史へ結び直す試みである。宮澤菊男宅に宿泊しながら安曇野を描いたという事実を伝えることで、作品の背後にあった人の縁、滞在を支えた暮らし、相道寺の文化にも眼を向けることができる。絵画だけで完結させず、作品が生まれた土地と人との関係を含めて紹介することが、大町山麓美術館の大切な役割である。

山下大五郎は、自らの眼で確かめた対象を、時間をかけて絵画へ変えた。官展で培った技術、戦争と抑留を経て制作へ戻った意志、立軌会での自主性、各地を歩いた粘り強さ、宮澤菊男をはじめとする人々との交流、安曇野での円熟は、一つの生涯の中でつながっている。その作品は景色を懐かしむためだけのものではない。自然と人間が同じ土地で生き、季節を重ねることの意味を、現在の私たちに問いかけている。