相道寺焼 古窯から新窯へ受け継がれる信州池田の陶芸
北アルプスを望む長野県池田町。その会染地区にある相道寺の集落には、江戸時代から受け継がれてきた焼き物の記憶があります。相道寺焼、読みは「あいどうじやき」。土地の土を用い、人々の暮らしに必要な器を焼いた窯の名です。
その歩みには、大きく二つの時代があります。明和四年(一七六七)に始まり、明治初期まで百年余り続いた古窯。そして、古い窯の調査と地域の人々の復興運動を経て、昭和四十七年(一九七二)に開かれた新窯です。両者の間には操業の途絶えた時期がありますが、土地への関心と、焼き物を作りたいという思いが、その隔たりを越えていきました。
古窯を知ることは、かつての信州の生活を知ることです。新窯を知ることは、残された文化を自分たちの手で次の時代へ渡そうとした人々を知ることです。一つの器を入口に、その二つの時間をたどってみましょう。
一 明和四年に池田の白土から始まった窯
相道寺焼の始まりを伝える重要な資料が、明和四年正月の焼き物に関する願書です。村の仁右衛門が提出したこの文書には、村に白土があり、美濃国岩村城下から来た伊保屋与平という人物に見てもらったところ、焼き物に使えると分かった経緯が記されています。試しに焼いたうえで、窯業を始める許しを願い出たのです。
願書からは、焼き物作りに寄せた生活上の期待も読み取れます。年貢の納入を支える収入を得たいという願いがあり、よい品ができれば領主への献上も考えていました。相道寺焼は、地域の人々が土地の資源を仕事へと結び付けようとした、民窯として出発したのです。
当時の信州では、瀬戸や美濃のような産地から器を運ぶにも、山を越え、重く割れやすい荷を扱う苦労がありました。近くで必要な焼き物を作れることには、大きな意味があったでしょう。原料となる土、窯を築く場所、燃料、そして器を使う人々。その条件が相道寺で結び付きました。
開窯から十七年後の天明四年(一七八四)には、旅人の菅江真澄がこの地を訪れています。紀行『久米路橋』に残された記述は、相道寺で陶器作りが行われ、美濃から来た職人が働いていたことを伝えます。願書に記された計画が、実際の生業として地域に根付いていたことをうかがわせる、貴重な記録です。
二 暮らしを支えた百年余り
古窯で作られたものには、甕、壺、擂鉢、油壺、徳利、燗徳利、火鉢などがありました。茶碗や湯呑、香炉、水滴、根付も知られ、瓦を焼いた記録もあります。水滴は書道で墨をする際に水を注ぐ小さな器です。食べる、蓄える、温まる、明かりをともす、文字を書く。器の種類を見渡すと、人々の一日の営みが浮かんできます。
大きな甕は、何をどれほど蓄える必要があったかを考えさせます。徳利のふくらみや口の細さは、液体を入れ、持ち、注ぐ動作と関わっています。こうした器の形は、使う人の手や置かれる場所に応えながら生まれたものです。実用品としての工夫が、今日の私たちには造形の魅力として見えてきます。
窯を営む現実は、残された帳面にも表れています。享和元年(一八〇一)の瀬戸屋文書には、作業小屋や道具、窯を動かす費用、売上などの見積りが記され、翌年の文書からは陶工の賃金や原料の仕入れを知ることができます。完成した器の背後には、土を運ぶ人、材料を調達する人、焼く人、売る人の仕事がありました。
現存する品には甕や壺、徳利が多く、茶碗や皿などはあまり残っていません。毎日使う薄手の器は割れやすく、残り方にも偏りがあります。いま目にできる大きな器だけで、古窯の仕事のすべてを思い描くことはできません。その不足を補うのが、文書と発掘で見つかった陶片です。
三 土と釉薬がつくる相道寺焼の表情
相道寺焼の古い甕や壺には、褐色から黒褐色の釉薬の上を、白い釉薬が流れるものが見られます。釉薬とは、器の表面を覆い、焼くことで色や光沢を生む材料です。肩から胴へ垂れる白い筋、釉薬が厚くたまる部分と薄くなる部分、横に巡る轆轤の跡。それらが重なり、一つずつ異なる表情を作っています。
白い流れを見て、雪を残した山の姿を思い浮かべる方もいるでしょう。ただし、それを当時の陶工が意図した景色と決めることはできません。器に何を見るかという鑑賞の楽しみと、資料によって確かめられる制作の事情を、ともに大切にしたいところです。
古窯の器を見る手掛かりには、白みのある胎土、角張った高台の畳付、厚めの作り、釉薬のむらや火ぶくれなどがあります。胎土は器の本体を形作る土、畳付は底で台に接する部分です。胴に生じた火ぶくれは「ブク」とも呼ばれます。土と熱を扱う難しさが、器の表面に残ったものといえます。
もっとも、これらは一つだけで産地を断定できる印ではありません。近隣の窯にも似た形や釉調があり、相道寺焼自体も長い操業の間に変化しています。底の作り、土の色、器形、釉薬、伝来などを合わせて考えることが必要です。
発掘陶片から分かる古窯の表現は、褐色と白の組合せだけに収まりません。黄瀬戸、織部、絵志野などにつながる技法が認められ、さまざまな器を試みていたことが分かります。落ち着いた日用陶器の印象の奥に、外から学んだ技術を土地の土で生かそうとする、陶工たちの試行がありました。
四 中信の窯へ広がった技と人
江戸時代から明治初期にかけて、信州の各地には多くの窯が生まれました。瀬戸や美濃から来た職人が関わる窯も多く、技術は人の移動とともに伝わりました。相道寺焼も、その交流の中に位置しています。
浅間焼を木村小次郎が引き継いだ際には、相道寺村の相馬六郎が指導したと伝わります。その後の浅間焼から入道焼へ、さらに洗馬の窯へとつながる動きもありました。相道寺、浅間、入道、洗馬の器に似た表情が見られる背景には、こうした職人と技術の行き来があるのです。
似ているからといって、すべてを一つの窯の製品として扱うことはできません。それぞれの土地で入手できる土や燃料が異なり、使う人々の求めるものにも違いがあります。受け取った技術は、その土地の条件に合わせて調整されました。信州の焼き物は、互いに関係しながらも、それぞれの仕事を育てていったと考えられます。
相道寺焼を学ぶと、視線は自然に池田町の外へも広がります。一つの窯の歴史が、中信地域の産業や交通、職人の交流を知る入口になるのです。各地の器を並べて見るときには、共通する形と、その中にある小さな違いの両方に目を向けてみてください。
五 窯の火が途絶えたあとに残ったもの
古窯の終わりについては、開窯の願書ほど明確に時期を定められる資料がそろっていません。明治五年(一八七二)の文書にも瀬戸物焼の記述があり、その後に廃業したと考えられています。江戸中期から明治初期にかけて、百年余り営まれた窯でした。
火が消えたあとも、器は家庭に残り、窯の存在は土地の記憶として伝わりました。「瀬戸屋」という屋号や古文書、白土の出る場所、十二の窯で焼いたという言い伝え。別々に残されていたものが、後の調査で互いを確かめる手掛かりとなります。
復興への関心も、昭和四十年代に突然生まれたわけではありません。大正十二年から十三年にかけては、地域の人々が再興を試みています。古窯に近い場所で小さな窯を築き、器を焼いたものの、事業としては続きませんでした。
一度の試みが途切れても、関心を持つ人が次に現れれば、記憶はまた動き出します。相道寺焼の歴史には、そうした間を置いた働きかけが重なっています。古い器を手元に残した人、文書を守った人、昔の話を語った人の存在が、後の復興を支えました。
六 神器三種がつないだ再発見
昭和四十年(一九六五)、池田町の古文書展で、相道寺焼の始まりを示す願書が展示されました。開窯の事情を具体的に知ることができる資料の紹介によって、地域の関心が高まります。同じころ、相道寺焼保存会が結成され、家庭に眠る器や窯の跡を調べようとする動きが進みました。
ここで大きな役割を果たしたのが、相道寺庚申講に伝わる「神器三種」です。徳利、香炉、灯明台からなる一組で、篠田義一が鑑定を依頼されました。底には文化十二年(一八一五)四月の制作年を示す文字があり、相道寺焼の確かな作例として重要な意味を持ちます。
この一組は、昭和四十一年(一九六六)四月一日、池田町の文化財第一号に指定されました。生活の器として語られることの多い相道寺焼が、地域の祈りの場にも関わっていたことを示す品です。器が使われた場と年代をともに考えられる点も、調査のうえで貴重でした。
篠田義一は、保存のための代替品として白磁の神器三種を制作しました。古い器を守りながら、地域の行事で用いる器も用意する。その行為には、文化財を残すことと、人々の営みを続けることを結び付ける姿勢が表れています。
古窯の作品を見極める目と、新しい器を作る手。その両方を持つ義一が関わったことは、その後の相道寺焼にとって大きな力となりました。古い焼き物への関心が、調査から実際の制作へ向かう道が、ここに開かれていきます。
七 昭和四十三年に姿を現した十二段の登り窯
昭和四十三年(一九六八)七月二十一日、二十二日、相道寺焼古窯の発掘調査が行われました。篠田義一の指揮のもと、池田町教育委員会、地域の文化団体や保存会、住民、池田工業高校の生徒らが協力し、延べ約七十人が参加しました。
地中から確認されたのは、十二段の登り窯でした。全長は約十八メートル。斜面に沿って焼成室を連ね、下から上へ熱を通す窯の構造が、かつての言い伝えと結び付きました。文章や記憶の中にあった窯が、土地に残る具体的な姿として確かめられたのです。
調査では約三千点の破片と、焼成前の未成品四点などが見つかりました。完成した器だけを見ていたのでは分からない、作業途中の姿や多彩な器種が現れます。茶碗、皿、急須などの破片は、伝世する大きな甕や壺を中心とした古窯像を、より豊かなものにしました。
割れた陶片にも、底の削り方、釉薬の重なり、文様の一部が残っています。どのように形を作り、どんな仕上がりを目指したのかを考える資料になります。完成品の少なさが、そのまま当時の生産の少なさを意味するとは限りません。発掘は、残り方の偏りを越えて、窯の仕事を見直す機会でした。
この調査は、専門家の判断と地域の協力が合わさって進められました。地元の人が語り、文書を持ち寄り、若い人が実際に土を掘る。その共同の経験が、相道寺焼を自分たちの文化として受け止める力になったと考えられます。古窯の再発見は、次の窯を生み出す人々の結び付きも育てていました。
八 古窯を学ぶ人々が新窯を育てる
発掘の行われた昭和四十三年の三月には、相馬将門の呼び掛けによって、八人の仲間が相道寺焼同好会を結成していました。古い窯を調べて記録する動きと、もう一度この地で焼き物を作ろうとする動きは、同じ時期に進んでいたのです。復興に向け、篠田義一に指導を仰ぎました。
新しい制作の場所として提供されたのは、宮澤菊男の父、信雄が所有する空いた蚕室でした。蚕を育てていた建物が、人々の集まる陶芸の工房へと変わっていきます。地域の暮らしの中にあった場所を生かした出発でした。
昭和四十七年(一九七二)春には、建物の整備が進められます。旧広津小学校などから使われなくなった机や黒板、下駄箱を譲り受け、教室の備品をそろえました。資金を集めて電気窯二基を購入し、裏山で採った土を精製して、制作の準備を進めています。
古窯では登り窯で焼いていた器を、新窯は電気窯を備えて作り始めました。設備も、作る目的も、江戸時代と同じではありません。地域の歴史を受け取り、その時代に続けられる方法を選んだ復興でした。
集まった人々には、それぞれの仕事や家庭がありました。準備の中心を担った相馬将門をはじめ、場所を提供する人、備品を運ぶ人、作業を手伝う人の力が必要でした。窯が開くまでの一つひとつの仕事にも、相道寺焼を続けたいという思いが表れています。
九 篠田義一と昭和四十七年の開窯
昭和四十七年七月十六日、相道寺焼の新窯が開かれました。古窯の創始から二百年余りを経て、相道寺の名を掲げる新たな制作と学びの場が生まれたのです。開窯に際して篠田義一は、自ら二百個の湯呑を制作しました。
義一は京都で近藤悠三に学び、信州に戻ったのちも制作を続けた陶芸家です。染付を軸とした作品で知られる一方、相道寺焼では、地域の人々に土を扱う基礎から伝えました。自分の作品を作る時間を持ちながら、古窯の調査と新しい窯の育成にも力を注いだのです。
開窯後も、義一は浅間温泉から池田へ毎週通い、指導を続けました。土を練る、轆轤で形を作る、乾かす、釉薬を掛ける、焼く。焼き物の制作は、途中の一工程だけを覚えて完結するものではありません。ときには泊まり掛けになりながら、制作を教えました。
新窯を維持するための資金作りにも関わりました。彫刻家の小林章による狛獅子の原型を陶製のブックスタンドにする仕事や、雷鳥などを題材とする制作が行われています。仲間たちは勤務を終えてから集まり、夜遅くまで作業したといいます。教室の運営と、品物を作って届ける仕事が、互いを支えていました。
この歩みを知ると、開窯時の湯呑も、一つの記念品を越えて見えてきます。器の形を手本として示すこと、制作の手順を伝えること、窯を続ける仕事をともに考えること。義一が新窯に残したものは、作品と技術、そして具体的な実践の積み重ねでした。
十 宮澤菊男と暮らしに開かれた陶芸教室
新窯の開窯翌日から始まった陶芸教室には、多くの申込みがありました。相馬将門一人では対応が難しくなり、宮澤菊男が勤めを辞めて、新窯の運営に本格的に加わります。宮澤家はもともと瓦を作っていた家で、菊男自身にも瓦職人として働いた経験がありました。
土を扱ってきた経験に、篠田義一から学ぶ陶芸の技術が重なります。瓦作りと器作りでは目的も方法も異なりますが、材料の状態を見て、形を作り、焼き上げる仕事の基礎は、菊男の大切な土台になったのでしょう。制作と指導を続けながら、作家としても研鑽を積みました。
新窯は、子どもから高齢者までが土に触れる場所となり、県内外から人々が訪れました。実演を囲んで手の動きを見つめ、机を並べてそれぞれの器を作る。教室には、実際の仕事を目の前で学べる時間がありました。同じ場所で学び、焼き上がりを待つ経験が、新しい焼き物のつながりを生みました。受講者が作る作品の展示販売も行われ、教室の活動が町の人々に伝わりました。
昭和五十二年(一九七七)八月十九日から二十一日には、篠田義一を審査委員長として、第一回の相道寺焼作品コンクールが池田町公民館で開かれています。その後も作品を発表する機会が設けられ、教室で学ぶことが、他の人に見てもらい、次の制作へ進むことにつながりました。
菊男の作品には、吾亦紅を描いた鉢や、北アルプスを表した花瓶などがあります。古窯に通じる土と釉薬への関心を持ちながら、身近な草花や山の姿を器へ取り込んでいます。新窯が育てた表現には、作り手自身が見てきた信州の風景も重なっているのです。
十一 宮澤弘幸へ受け継がれる新窯
菊男の仕事を受け継ぐのが、息子の宮澤弘幸です。弘幸は多治見市立意匠研究所で学び、志野の陶芸家、若尾昌宏の虎渓窯で修業をしたのち、地元で制作に取り組みました。相道寺で育った経験に、美濃の地で学んだ技術と考え方が加わっています。
相道寺焼の始まりには、美濃から来た職人が関わっていました。新窯の次の担い手が多治見で学び、池田へ戻ったことには、時代を隔てた興味深い響き合いがあります。これは同じ師弟系統が途切れず続いたという意味ではありませんが、地域の陶芸が外との交流によって育ってきたことを考えさせます。
継承には、すでにある形や釉調を学ぶ仕事があります。同時に、自分の技術を磨き、自分が作りたい器を探す仕事もあります。父の仕事場を引き継ぐことと、作家として歩むことは、日々の制作の中で重なっていくのでしょう。
弘幸も制作と陶芸教室に取り組み、新窯の仕事を受け継いできました。花器には、背の高いすっきりした姿のものも見られます。古い甕や徳利のふくらみと比べると、器の輪郭そのものを見つめる楽しさが生まれます。代々の器を一緒に見ることで、相道寺という土地に、新しい形が加わってきたことが分かります。
同じ池田町では、義一の長女である篠田明子が、平成八年(一九九六)に会染窯を築きました。父に土練りや轆轤、絵付けを学び、身近な草花を題材に制作を重ねています。相道寺焼新窯の歩みと会染窯の作品をともに見ると、義一の教えが、地域の仲間や家族、それぞれの作り手へ広がったことが分かります。池田の陶芸を知るうえで、この人と人とのつながりも大切な手掛かりとなるのです。
相道寺焼という名を未来へ渡すのは、過去を調べる人と、今日の作品を作る人の両方です。残された古窯の資料を尊重しながら、新窯で生まれる作品にも目を向けることで、相道寺焼を変化のある歴史として受け止めることができます。
十二 古窯と新窯を見比べる楽しみ
古窯と新窯の器を見るときは、まず全体の形を眺めてみましょう。肩の張り方、胴のふくらみ、口と底の釣合い。大きな甕には蓄えるための容量と安定感があり、徳利には持って注ぐための形があります。用途を思い浮かべると、器の輪郭に理由が見えてきます。
次に、表面へ目を近づけてみてください。釉薬の光沢は均一でしょうか。白い釉薬はどこから流れ、どこで止まっているでしょうか。横に巡る筋や、土の粒が見える部分はあるでしょうか。器の細部を追うと、同じように見えた器の違いが分かってきます。
底の写真があれば、表側と合わせて見るのもよい方法です。釉薬の掛かっていない土の色、高台の形、削り跡などは、作り方を知る手掛かりになります。ただし、見た目の特徴だけで年代や産地を決めず、作品の解説や伝来の記録と照らし合わせることが大切です。
古窯では、作り手の名が分からない器も多くあります。その分、器の用途や地域の生産の仕組みに思いを向けることができます。新窯の作品では、作者の歩み、学んだ技法、選んだ題材を知ることが、鑑賞を深めてくれます。見るための手掛かりが異なることも、二つの時代をたどる楽しみです。
古窯の流れる釉薬と、新窯の草花や山の表現。その間に共通するものを感じることも、時代による変化を見つけることもできます。一つの決まった特徴に当てはめるより、目の前の器にどのような仕事が残っているかを、ゆっくり確かめてみてください。
十三 美術館からその先の暮らしへ
相道寺焼の歴史をたどると、器を残すことと、その背景を伝えることが深く結び付いていると分かります。品物が残っていても、どこで作られ、何に使われ、誰が守ってきたかが分からなくなれば、その土地とのつながりは見えにくくなります。作品と記録をともに伝えることが、美術館の大切な役割です。
古窯の願書を読んだ人、家に伝わる器を見せた人、発掘を手伝った人、蚕室を提供した人、教室で初めて土を練った人。相道寺焼の歩みは、多くの人の関わりによって支えられてきました。作家の作品とともに、こうした人々の仕事を知ることで、地域文化の厚みが見えてきます。
大町山麓美術館でも、相道寺焼を通して、信州の土と暮らし、そして作り手の歩みをお伝えしていきたいと考えています。器に表れた山や草花を、実際の風景と重ねてみる。古い道具の形から、かつての生活を想像してみる。美術館での出会いが、身近な土地を見直すきっかけになれば幸いです。
相道寺焼の物語は、明和四年に白土の可能性を見いだした人々から始まりました。古窯の器と文書が残り、調査によって窯の姿が明らかになり、篠田義一と地域の仲間たちが新窯を育てました。そして宮澤菊男、弘幸へと、制作の仕事が受け渡されてきました。
その流れを知ったあとで、もう一度、一つの器を見てください。土の色や釉薬の流れの向こうに、使った人の暮らし、作った人の手、残そうとした人の思いが見えてくるかもしれません。相道寺焼は、信州池田の土地と人がつないできた時間を、いまも私たちに伝えています。
