篠田義一から篠田明子へ 信州の風景と暮らしを映す陶芸

信州の山々を描いた篠田義一の器と、身近な草花を描く篠田明子の器。父と娘の作品をたどると、京都で学ばれた陶芸の技が、松本や安曇野の風景と出会い、それぞれの表現へと育っていく様子が見えてきます。義一は制作とともに地域の陶芸家を育て、明子は父のもとで基礎を身につけ、池田町の会染窯で自らの仕事を築いてきました。

二人を結ぶものは、家族としてのつながりに加え、土や筆を扱う日々の仕事です。器の形を整えること、描く対象をよく見ること、前の作品から次の工夫を考えること。二人の歩みを追い、作品の形や絵付けを見つめると、学んだ技を自分の表現へ育てる仕事が伝わってきます。大町山麓美術館が伝えたい、信州に生きる人と美術の関係も、この歩みの中にあります。

陶芸を志した篠田義一の少年時代

篠田義一は、大正13年(1924)、下伊那郡川路村、現在の飯田市川路に生まれました。昭和6年(1931)、小学校二年生のときに松本へ移り、先に松本で暮らしていた父のもとで生活を始めます。後に義一が描く山岳や草木の背景には、こうした信州での暮らしがあります。ただし、その道は幼いころから一直線に定まっていたわけではありませんでした。

陶芸家を志す大きな契機となったのは、松本第二中学校、現在の松本県ヶ丘高等学校に通っていたころの出会いです。昭和15年(1940)ごろ、父に連れられて訪れた松本市内の鶴林堂書店の展覧会で、三代伊東陶山の人柄と作品に強くひかれました。作品を見る経験が、鑑賞する側から制作する側へ進むきっかけになったのです。

義一は陶山の内弟子になることを希望しましたが、陶山は、自分より若い近藤悠三のもとで学ぶよう勧めました。昭和17年(1942)、中学校を卒業した義一は、悠三への弟子入りを許されます。しかし、京都へ行くための旅費を用意できず、すぐには修業に入れませんでした。その後、戦時下の生活と入隊を経験し、作陶の道を本格的に歩み始めるのは戦後になります。

戦後の義一は、見よう見まねで陶芸に取り組みながら、京都で学ぶ機会を待ちました。若いころの志と、実際に仕事を始められる時期との間には隔たりがありました。その時間を経て、昭和23年(1948)、義一は京都へ赴き、近藤悠三の内弟子として学び始めます。

近藤悠三に学び松本へ帰る

近藤悠三は、染付の仕事で知られる京都の陶芸家です。義一は悠三と生活をともにしながら、制作の現場で修業を重ねました。作品が出来上がるまでの工程を間近で見ることは、完成品を眺めるだけでは分からない判断を学ぶ機会でもあります。器をどのような形にし、その面にどのように筆を運ぶか。義一の後の仕事につながる学びが、日々の制作の中にありました。

修業期の義一は日展への入選を果たし、作品を発表する場を広げていきます。昭和28年(1953)には長野県展の審査員となり、同年、悠三の次女である和子と結婚しました。師弟として始まった近藤家との関係は、家族としての関係にもなります。後に生まれる明子にとって、悠三は母方の祖父に当たります。

京都で制作を続けた義一は、やがて師からの自立を決意します。昭和37年(1962)、京都東山の陶房を引き払い、一家で松本浅間へ帰りました。長く学んだ土地を離れ、故郷に仕事の拠点を移す選択でした。以後の義一は、京都で培った技術を土台に、信州の風景を自分の器に描いていきます。

この帰郷は、制作場所の移動とともに、作品の題材と日常の距離が近くなる出来事としても捉えられます。家から見える山や、季節ごとに姿を変える草木を繰り返し見る。その蓄積を器の上でどう表すかという仕事が始まります。師から学んだ技と、自分の暮らす土地へのまなざしが、義一の作風を形づくっていきました。

信州の山々を染付に描く

義一の作品を代表する題材の一つが山岳です。自宅から望む常念岳も、白磁に染付で描いた身近な山の一つでした。白い器に青を中心とする絵付けを施す染付は、色の濃淡と白い部分の取り方によって、山の量感や空間の広がりを表すことができます。義一は身近な山の姿を、花瓶や水指などの形に合わせて描きました。

「染付山岳花瓶 浅間山」では、山の頂から裾へと広がる青い線が、丸みのある器の表面を動いています。その下には雲を思わせる形が重なり、胴の下方には横方向の模様が配されています。山の絵と器の輪郭を一緒に見ると、立体の上に風景を構成する工夫に気づきます。

山を描く器では、正面の景色と、側面へ続く絵付けとの関係も鑑賞の手がかりになります。花瓶は平らな画面と異なり、視点によって見える部分が変わります。山の大きさを器のふくらみに合わせ、余白を取り、絵が回り込む先を考える必要があります。義一の山岳作品には、風景を眺める経験と、器を作る仕事が重なっています。

「芽吹花瓶」では、縦に伸びる器に幹と枝が細かく描かれています。枝先の小さな芽に目を向けると、山岳作品とは異なる距離から自然を見ていることが分かります。遠くの山を大きく捉える目も、近くの木の変化を見つめる目も、義一の制作を支えていました。信州の自然という一つの言葉の中に、さまざまな観察の仕方があります。

金彩と器の形を生かす仕事

義一は染付に加え、金彩にも長く取り組みました。青や白に金色が加わると、同じ山や植物を題材にしていても、作品の印象は大きく変わります。「金彩花瓶あざみ」では、金色の背景に青い茎と葉が伸び、花の部分には深い色が置かれています。葉の切れ込みと茎の動きが、細長い花瓶の面を引き締めています。

「金彩山岳水指」では、蓋のある丸い器に山岳が描かれています。水指は茶の湯で用いる器です。蓋や口、胴のふくらみを含む形の中に山の景色を収めることで、花瓶とは違うまとまりが生まれます。金彩の華やかさを見ると同時に、器の用途と形に応じた構成にも注目したい作品です。

一方、「染付飾壺 田園」は、丸く広がる扁平な器に、線や面を組み合わせた文様を展開しています。青の濃淡と白い部分が交互に現れ、直線的な区切りの中に植物を思わせる形が描かれています。義一の制作には、風景を具体的に描く仕事と、自然から得た形を文様として組み立てる仕事の両方がありました。

作品を比べると、義一が山岳だけを繰り返した作家ではないことが見えてきます。草花、樹木、田園の印象を、器の形や装飾に応じて使い分けていました。整った器形と装飾性の高い絵付けは、こうした個々の作品に見られる義一の特徴です。形と絵を別々に評価するより、その取り合わせを見ると、仕事の幅が伝わります。器の輪郭と絵付けを交互に見ると、最初は気づかなかったつながりも見えてきます。

信州で陶芸を学ぶ場を育てる

義一の活動は、自分の作品を制作し発表することと並行して、後進を育てる方向にも広がりました。長野県展の審査員を務め、昭和39年(1964)には朝日陶芸展の審査員となります。昭和43年(1968)には同展の審査委員長を務めました。地域で制作する人たちの作品に接し、その仕事を支える役割を担っていたのです。

義一は海外にも活動の場を広げました。昭和40年(1965)には長野県の文化使節団として米国ミズーリ州を訪れ、昭和45年(1970)にはフランスのヴァロリスで開かれた国際陶芸ビエンナーレに参加しています。義一は、海外での経験が自分を積極的な性格へ変える契機になったと振り返っています。信州に仕事の拠点を置きながら、外の世界へ出て作品や人と接する姿勢がありました。その歩みを知ると、義一の後進育成も、長く続けた制作や交流の経験を地域に伝える仕事として理解できます。

池田町の相道寺焼との関わりは、その活動を具体的に示しています。昭和43年(1968)の古窯発掘では、義一が調査を指導しました。地中から現れた登り窯や陶片を通して、江戸時代から続いた地域の焼き物を調べる仕事です。制作する陶芸家の目が、過去の器や窯を理解するためにも生かされました。

同じころ、池田町では地域の人々が相道寺焼の再興を目指して動き始めます。義一はその相談に応じ、陶芸の指導を行いました。昭和47年(1972)7月16日の新窯開窯に際しては、記念の湯呑を二百個制作しています。開窯後も松本浅間から通い、教室で指導を続けました。古窯を調べる仕事と、新たに作る人を育てる仕事が、同じ地域で結びつきました。

この場では宮澤菊男らが学び、相道寺焼の新窯の仕事を育てていきます。義一から伝わった技は、家族の中にも、地域の人々の中にも広がりました。明子の会染窯と相道寺焼の新窯は、それぞれの歩みを持つ窯ですが、義一の指導と池田町との長い交流は、両者を理解するうえで大切な背景です。

父の展覧会から明子の選択へ

篠田明子は、昭和37年(1962)、松本に義一の長女として生まれました。父も母方の祖父も陶芸家という環境で育ちましたが、陶芸を自分の仕事にしようと考える契機は、実際に父の作品を見る経験にありました。高校生のとき、父の作陶三十周年の記念展を見て、自分のした仕事が形として残る陶芸に強くひかれ、陶芸家を志しました。

この出会いは、少年時代の義一が陶山の展覧会で陶芸を志した出来事と重なります。世代や状況は違っても、目の前の作品が進む道を考えるきっかけになりました。完成した作品には、制作の場から離れたところで人に働きかける力があります。父の仕事を見る経験が、明子自身の選択につながったのです。

松本深志高等学校を卒業した明子は、父に師事し、陶芸の道に入ります。教わったのは絵付けだけではありません。土を練ることから、ろくろで形を作ることまで、基礎を繰り返し学びました。好きな絵を器に描くためにも、その器を自分で作る力が必要でした。

明子が父から徹底して学んだ土練りとろくろは、器を生み出すための基礎でした。壺の肩をどの位置に置くか、口をどれほど開くかによって、同じ植物を描いても受ける印象は変わります。明子の丸みのある壺を見るときには、絵付けの周りを囲む器の輪郭にも目を向けたいものです。父のもとで身につけた技術が、その形を支えています。

五十の器に五十の図案を考える

明子の修業には、父から受けた印象的な教えがあります。五十個の器があれば、それぞれ異なる図案を考えることが勉強になる、という父の指導です。同じ図案を繰り返し写す方法とは違い、器ごとに何をどう描くかを考える課題でした。技術を練習する時間に、発想を働かせる訓練も組み込まれていたことが分かります。

例えば同じ草花を描く場合にも、花を正面から見るか、横から見るかで形は変わります。葉を大きく取るか、茎を長く伸ばすか、白い部分をどれほど残すかによって、器の印象も変わります。図案を変えるという課題には、題材を増やすことに加え、一つの題材を繰り返し観察する余地がありました。

器の形が変われば、絵付けの考え方も変わります。浅い皿には内側へ広がる面があり、壺には肩から胴へ続く曲面があります。小さなぐい呑では、一筆の位置や太さが全体に大きく関わります。形に合った絵を考える経験は、装飾を器の上にただ付け足すことから、形と文様を一緒に作ることへつながります。

父から娘への継承を考えるとき、この教えは重要です。義一は、自分と同じ作品を作るための図案だけを渡したのではなく、明子が自分で考える機会を設けていました。明子の草花の表現や、後の幾何学的な文様を、この学びの延長として見ることもできます。継承された技を用いて、何を描くかは自分で決めていく。その姿勢が、作家としての仕事を支えます。

展覧会で表現の幅を広げる

明子は修業を重ねながら、公募展へ作品を発表していきました。長野県工芸秀作展への初入選を果たし、昭和62年(1987)には伝統工芸新作展と女流陶芸展に入選、朝日陶芸展で新人陶芸賞を受賞しています。父の指導を受ける日々から、自らの名で作品を問いかける場へと活動が広がりました。

初期の発表作には、ホタルブクロを題材にした鉢や、「あざみ大皿」「ひなげし大皿」があります。身近な植物が題材として現れる一方、朝日陶芸展で新人陶芸賞を受けた作品は、オブジェの「連山」でした。明子は器と絵付けの仕事を進めながら、立体そのものの表現にも取り組んでいたのです。

さらに「地球の抜け殻」などのオブジェ作品も発表しています。展覧会への出品は、自分の作品を他の作家の作品と同じ場に置き、見直す機会になります。用途を持つ器を作ることと、用途から離れた形を考えることは、制作の中で互いに問いを与える経験だったと考えられます。

明子の仕事を草花の優しい器という印象だけで捉えると、こうした試みが見えにくくなります。初期から複数の表現に取り組んでいたことを知ると、後に現れる抽象的な文様も、長い試行の中に位置づけられます。作品歴をたどる楽しさは、よく知られた一つの作風の背後に、別の仕事を見つけられることにもあります。

池田町に会染窯を開く

平成8年(1996)、明子は北安曇郡池田町会染に、自らの窯である会染窯を築きました。義一が以前から土地を確保していた場所で、北アルプスを望む安曇野に制作の拠点を置いたのです。父の工房で学んできた時間を経て、自分の仕事を続けていく場所が定まりました。

池田町は、義一にとって相道寺焼の調査や再興、地域での展覧会を通じた縁の深い土地でした。明子の築窯は、そうした交流の蓄積の中にあります。義一の三人の子どもはいずれも陶芸家となり、父には、それぞれが別の地域で活動したほうがよいという考えがありました。家族の仕事を継ぎながら、自分の制作場所を持つことが重視されていました。

平成11年(1999)、義一も松本浅間の工房を長男の典明に譲り、明子の暮らす池田町へ移りました。京都で学び、松本で制作と指導を続けた義一の晩年の仕事は、ここにつながります。平成18年(2006)には、作陶六十年を振り返る展覧会も開かれました。平成22年(2010)1月に亡くなるまで、義一は制作を続けました。

父と娘が同じ地域で制作するようになった経緯を知ると、二人の作品の背景が少し近づきます。山並みや季節の変化を身近に感じながら、それぞれが異なる器を作っていました。会染窯という場所は、受け継いだ技を明子自身の仕事として育てる場であり、義一の歩みともつながる土地なのです。

草花の姿を器に移す

明子は幼いころから野の花を好み、高校時代から華道も学んでいました。身近な草花は、明子の作品に繰り返し登場する大切な題材です。花の名前が分かれば作品に親しみやすくなりますが、名前を知らなくても、茎がどちらへ伸び、葉がどう開くかを見ていくと、絵付けの動きを楽しむことができます。

「染付石榴壺」では、ふくらみのある器の上部に石榴の実と葉が配されています。実の丸みは壺の形とも響き合い、下方には広い白い部分が残されています。描かれた部分と描かれていない部分の関係によって、植物の姿が明瞭に見えます。文様の量を抑えることも、器を作るうえでの積極的な選択です。

「染付風船葛壺」では、細いつるから実がつり下がり、白い器面に軽やかな線が続いています。同じ丸い器でも、石榴の実とは異なる大きさや間隔が表れています。植物ごとの姿を見分け、その特徴を線や配置へ移すことが、身近な題材を作品にする仕事なのだと感じられます。

花が器面を広く覆う皿もあれば、青い地に白い花が浮かぶように見える作品もあります。白地に青を置くか、青い面の中に花を残すかによって、同じ植物でも見え方は変わります。父から学んだ染付の技は、明子の観察と構成を通じて、草花ごとの表情を伝える仕事になっています。使う人が知っている身近な植物との出会いも、そこに生まれます。

白磁と釉裏紅による表現

明子の作品には、草花を描く染付とともに、艶を抑えた白磁に釉裏紅を用いる仕事があります。そこでは、植物の姿を直接描く絵付けから、幾何学的な文様を組み立てる表現へと仕事の幅が広がっています。釉裏紅象嵌の壺では、白い面の中に細い線や小さな色の形が現れ、器全体の静かなまとまりを作っています。

「釉裏紅象嵌壺『舞い』」を見ると、丸い胴の上にゆるやかな曲線が続き、その間に先のとがった小さな形が置かれています。線を追うと、視線が器の表面を移っていきます。描かれたものの名前を探すよりも、線の流れや間隔、形の向きを見ていくと、作品名につながる動きを感じられます。

「釉裏紅象嵌壺『水面』」では、輪のような線が白い器面に広がっています。題名を知ると、水に生じる波紋を思い浮かべることもできます。ただし、見る人が同じ景色を思い浮かべる必要はありません。線の強さや余白を、自分の記憶と照らし合わせながら見る余地が、この作品にはあります。

これらの壺を草花の染付と比べると、色数や文様の密度に違いがある一方、白い器面を生かす関心は共通しています。具体的な花や実を描く作品でも、抽象的な線を用いる作品でも、形と余白への配慮が見られます。父の絵付けを学んだ明子が、その基礎からどのような表現を選び、展開してきたかを考えるうえで、見比べたい作品です。

山と草花を結ぶ白い器面

義一と明子の作品を見比べると、白い部分がそれぞれの表現に深く関わっていることに気づきます。義一の山岳を描いた花瓶では、白が山の周りの広がりをつくり、青い線を際立たせています。明子の草花の壺では、描かれた実や葉の周りに白い面が残され、一本のつるや枝の動きが見やすくなっています。

白い面は、絵を描かなかった残りの部分としてだけ見る必要はありません。密に描かれた場所と、線の少ない場所を行き来すると、器全体の見え方が変わります。明子の「染付石榴壺」では上部の実から下へ視線を移し、「染付風船葛壺」では細いつるをたどってみる。余白と文様を一緒に見ることで、植物を器に収める工夫が伝わります。

義一の「笹花瓶」では、太く描かれた葉と細い茎が白地の中で交差しています。一枚の葉の濃淡と、周りに残る白い形を見れば、題材の笹だけでなく、筆を運ぶ強さにも目が向きます。父と娘の作品に共通する染付という技法の中にも、力強く面を置く表現から、細い線で植物を捉える表現まで、多くの違いがあります。

見慣れた花や山が、器の上ではいつもと違う姿で現れます。どの形を選び、どの部分を省き、どこに色を置いたのか。作品を見ながらその選択をたどると、自然をそのまま写すことと、自然をもとに一つの器を作ることの違いが分かります。二人の仕事は、日常の景色を見直すための目も、私たちに与えてくれます。

父と娘の作品から地域の美術を知る

義一から明子への歩みをたどると、受け継がれたものを具体的に考えられます。ろくろで形を作る技術、筆で文様を描く技術、自然を観察する習慣がありました。そして、自分の図案を考え、作品として発表していく仕事がありました。その基礎を共有しながら、二人はそれぞれの題材や形を選んでいます。

義一の山岳と明子の草花を見比べると、同じ信州の自然でも、見る距離や表し方が異なることが分かります。さらに金彩、染付、白磁と釉裏紅へ目を広げると、色や器面の扱いにも違いが見えてきます。親子という関係を知ることは鑑賞の入口になりますが、作品を一つずつ見ることで、それぞれの作家の判断に近づけます。

大町山麓美術館では、作品と、その作品が生まれた土地や人の歩みを結びつけて伝えたいと考えています。京都から松本へ伝わった学びが、池田町での指導や築窯につながり、次の世代の制作へと続く。その経緯を記録と作品の両方から知ることは、身近な地域の美術を理解する助けになります。

義一の器を見るときには、描かれた山だけでなく、その器の形にも目を向けてみてください。明子の器では、一輪の花や一本の線の周りに、どのような白い部分が残されているかを見てみてください。二人の作品を行き来するうちに、教えを受け継ぐことと、自分の作品を作ることの関係が、目の前の形として感じられるはずです。