プロフィール

足立源一郎 略歴

足立源一郎――山に登り、山を見つめ、山を描いた画家

足立源一郎(あだち・げんいちろう、1889〈明治22〉年―1973〈昭和48〉年)は、日本の近代洋画と山岳画の歩みを語るうえで欠かすことのできない画家である。大阪に生まれ、京都と東京で洋画の基礎を学び、二度にわたる欧州滞在によって西洋美術への理解を深めた。帰国後は春陽会の創立に参加し、制作だけでなく、美術技法の研究、翻訳、執筆、工芸・造形の指導にも力を注いだ。その一方で、次第に日本の山岳、とりわけ北アルプスへ強く惹かれ、画具を携えて山中に入り、岩稜、雪渓、雲、光、高山の大気を自らの眼で確かめながら描く道を選んだ。

足立の山岳画は、山を遠くから眺めた名所絵ではない。登山者として山へ分け入り、足場を選び、天候の変化を受け止め、刻々と移る光のなかで対象を観察した経験が、その構図と色彩を支えている。どの山を描いたかだけでなく、どこから見たか、どれほど近づいたか、その時に雲や光がどのように地形を見せ、また隠したかが重要なのである。山に登ることと絵を描くことを切り離さず、生涯にわたって現場での観察を重ねたため、足立は「山の画家」として知られ、「山岳画の神様」と慕われた。

大町山麓美術館では、足立源一郎の山岳風景を中心とする油彩作品を収蔵・展示している。館の作品台帳に登録された22点は、1932年の《春の野尻湖》から1971年の《槍ヶ岳》まで約四十年に及び、北アルプスの岩峰だけでなく、湖、山村、渓流、高原、樹林、花の咲く里など、足立が向き合った風景の広がりを伝えている。本稿では、大町山麓美術館の現行略歴に記載された生涯と画業を踏まえ、館が所蔵する作品と一次資料の学習成果を手掛かりに、足立源一郎の人物像、山岳画の特色、そして今日に残る意義を詳しく紹介する。

大阪に生まれ、京都と東京で洋画を学ぶ

足立源一郎は1889(明治22)年7月8日、大阪に生まれた。明治後期は、日本の画家たちが西洋から導入された油彩画や素描の方法を学びながら、それを日本の風土と感覚のなかに根づかせようとしていた時代である。足立も若くして画家を志し、京都市美術工芸学校、関西美術院などで学んだ。京都市美術工芸学校は近代的な美術教育を担った場であり、関西美術院は写生とデッサンを重視する洋画教育の拠点であった。足立はこの環境のなかで、対象をよく見て形を捉える訓練を積み、浅井忠や鹿子木孟郎らに師事した。

この若い時期に身につけたデッサンの力は、後年の山岳画を考える際にも見逃せない。複雑な岩稜や重なり合う山塊を描くには、目の前の形を輪郭だけで写すのではなく、面の向き、傾斜、量感、前後関係を理解しなければならない。足立の作品に見られる確かな地形把握は、山に登った経験だけで突然生まれたものではなく、青年期から続く観察と素描の訓練に根を持っている。

1908(明治41)年、足立は上京し、太平洋画会研究所などで洋画の研鑽を重ねた。京都と東京という二つの学習環境を経験したことは、日本の洋画壇を広く見渡す機会になったと考えられる。異なる画家や教育の場に接しながら、足立は一つの様式を受け入れるだけでなく、自分の眼で対象を確かめ、それを画面に組み立てるための基礎を固めていった。この「自分で見る」という態度は、欧州での学びにも、のちの山岳での制作にも通じている。

最初の欧州滞在――西洋絵画を現地で学ぶ

1914(大正3)年、足立源一郎はフランスへ渡った。パリではグラン・ショミエール、アカデミー・ランソンで西洋絵画を学び、作品と教育の双方を現地で経験した。複製や書物を通して西洋美術を知るだけでなく、実際の作品が置かれた空間に立ち、画面の大きさ、色彩、絵具の扱い、人物や風景の構成を目で確かめることができた点に、この渡欧の大きな意味があった。

しかし1914年は、第一次世界大戦が始まった年でもある。足立の欧州滞在は、平穏な留学生活だけで語れるものではなかった。戦争下の社会と文化を経験しながら制作と研究を続け、1918(大正7)年に帰国した。大町山麓美術館の現行略歴には、欧州滞在中、ロンドンにいた時期に松方コレクションの収集にも尽力した事績が記されている。西洋美術を学ぶ画家であると同時に、作品を日本へ伝える活動にも関わったことは、足立の視野が自身の制作だけに限られていなかったことを示す。

欧州で得たものを、特定の画家から受けた影響だけに還元することはできない。足立にとって重要だったのは、西洋絵画の歴史と技法を現地で学び、それを帰国後の日本でどのように生かすかという課題であった。のちに翻訳や美術に関する執筆、技法研究、造形指導へ活動を広げた背景にも、欧州で蓄えた知識と実見の経験があった。見ること、学ぶこと、伝えることが、ここから一つの活動として結びついていく。

日本美術院洋画部と春陽会の創立

1918年に帰国した足立は、日本美術院洋画部で活動した。海外で学んだ経験を持ち帰りながら、日本の風土と美術界のなかで自らの表現を築く時期に入ったのである。当時の洋画家にとって、欧州の美術を模倣するだけではなく、日本で何を描き、どのような発表の場をつくるかが大きな課題であった。足立は制作を続けるとともに、画家たちが主体となる新しい活動へ参加していった。

1922(大正11)年、足立は小杉未醒(のちの小杉放菴)、岸田劉生、木村荘八、山本鼎らとともに春陽会の創立に参加した。個性の異なる画家たちが集まった春陽会は、既成の一つの様式に全員を従わせるのではなく、それぞれの探究を生かす発表の場となった。足立は以後、春陽会を中心に作品を発表し、その画業を展開した。春陽会の創立に加わったことは、単なる所属歴ではなく、近代日本の洋画家が自ら作品発表の場を築いていく運動に参加したことを意味する。

大町山麓美術館所蔵の《北穂高第二尾根》について、館の一次資料学習では1953(昭和28)年の第30回春陽会展出品作として整理されている。この一点からも、春陽会が足立の山岳画を社会へ示す重要な場であり続けたことが分かる。岩峰を描いた作品は、山を知る登山者だけに向けた記録ではなく、近代洋画の展覧会空間で鑑賞される絵画として制作され、発表されたのである。登山の経験と洋画壇での活動は、足立のなかで別々に進んだのではない。

再渡欧と、技法・工芸・造形への広い関心

1923(大正12)年、足立源一郎は再び欧州へ渡った。二度目の滞在では、古典絵画や壁画、工芸などについて研究を深めた。油彩画の制作だけを狭く追うのではなく、建築空間と結びつく壁画、素材と技術が形を生み出す工芸へ関心を広げた点に、足立の研究者的な性格が表れている。西洋美術の過去と現在を実物に即して学び、技法がどのように表現を支えているかを考える姿勢である。

帰国後の足立は、絵画制作に加え、美術技法の研究、執筆、翻訳、工芸や造形の指導など、多方面で活動した。画家の仕事を完成した作品だけに限定せず、材料と技術を調べ、先行する美術を紹介し、次の世代や社会へ知識を伝えることにも力を注いだ。この幅広い活動は、足立を単に「山を描いた人」として理解するだけでは捉えきれない部分である。山岳画家としての名声の背後には、欧州美術への深い関心と、造形全般を考える知的な基盤があった。

また、古典絵画や壁画の研究は、後年の山岳画における大きな面の構成を考える手掛かりにもなる。足立の山は、細部を無数に描き込むことだけで成立しているのではない。明るい岩面と深い影、空と山塊、近い岩壁と遠い峰といった大きな関係が、画面全体の力をつくる。欧州研究と個々の山岳作品を一対一で結びつけることはできないが、画面を構造として捉える眼が長い学習と研究によって培われたことは、作品を見るうえで重要である。

山岳へ向かう画家――登山と制作の一体化

足立は次第に日本の山岳へ強く惹かれ、北アルプスをはじめ各地の山へ登って制作するようになった。山を描くために山麓から眺めるだけでなく、画具を携えて山中へ入り、観察する位置そのものを自分の足で選んだ。そこでは制作の条件を画家が完全に支配することはできない。寒さ、雨、風、雲、霧、光の方向と強さが絶えず変化し、描ける時間も限られる。足立はその制約を避けるのではなく、山岳の現実として受け入れた。

『画家足立源一郎の記録:1889~1973』に収められた上高地での日々の記述には、穂高や槍を描く行動のあと、寒さのため描かなかったこと、翌日には雨によって活動が制約されたことが残る。この短い記録が教えるのは、足立の現場主義が「山に登った」という勇ましい逸話だけではないことである。描くべき時を待ち、時には描かず、自然の条件に合わせて見ることと制作することを調整する。その判断もまた、山岳画を生み出す過程に含まれていた。

足立にとって、登山と絵画制作は切り離された二つの趣味ではなかった。登ることによって山の面が変わって見え、谷の深さや稜線のつながりが身体感覚として理解される。滞在することによって、同じ山が朝と夕、晴天と曇天、雲が湧く時と消える時とで異なる姿を示すことを知る。そうして得た経験が、完成作品の構図、明暗、色彩、筆致へ整理されていく。足立の山岳画の核心は、地形の恒常的な構造と、その時にしか現れない自然の状態を一つの画面に結びつけた点にある。

日本山岳画協会の創立

1936(昭和11)年、足立源一郎は石井鶴三、吉田博、茨木猪之吉、丸山晩霞、中村清太郎らとともに日本山岳画協会を創立した。山を主要な主題とする画家たちが集まり、登山と美術の接点を社会へ示したこの活動は、日本における山岳画の展開を考えるうえで重要である。山岳を描くことは、それ以前から行われていたが、自ら山へ入り、専門的な観察と造形表現を重ねる画家たちの活動が一つの輪郭を持つようになった。

ただし、山岳画は一種類の様式を意味しない。高い山を描けば同じ表現になるわけではなく、画家ごとに対象との距離、構図、色彩、登山経験の生かし方は異なる。足立の場合、山頂の特徴を図鑑のように示すことよりも、自分が立った位置から山がどのように現れるかを組み立てることに特色がある。視界を遮るほど近い岩壁、稜線の重なりの向こうに立つ槍ヶ岳、雲によって一部を隠される遠山など、見る場所と天候が変われば、同じ山域でも画面の性格は大きく変わる。

足立が日本山岳画協会の創立に参加した事実は、個人の制作と共同の活動が結びついていたことも示している。春陽会で近代洋画の発表に関わり、日本山岳画協会で山岳表現の場を切り開き、文章によって美術と山の経験を伝える。こうした複数の活動が重なって、足立は山岳画を一時的な題材ではなく、生涯を通じる仕事として社会に定着させていった。

山岳画の特色――地形、視点、光、時間

足立源一郎の作品には、山岳の地形を捉える確かなデッサンと、岩肌、雪渓、雲、高山の空気を簡潔で力強い筆致によって表す特色が見られる。北アルプスを描いた作品では、険しい岩峰の量感と澄んだ大気が画面のなかで結びつき、山を遠い背景ではなく、見る者が向き合う存在として感じさせる。形の正確さと絵画としての力強さが、互いを支えているのである。

大町山麓美術館所蔵の《北穂高第二尾根》では、画面右側を占める大きな岩壁が視線を受け止める。岩肌は均一な灰色の塊ではなく、光を受ける面と暗い裂け目が重なり、斜めに走る境界が厚みをつくる。左奥には別の岩峰が連なり、その下部を白い雲や霧が覆う。近い岩壁の明瞭さと、遠くで輪郭が薄れる部分の対照によって、山の近さと谷の深さが同時に生まれる。ここで山は、整った全景を見せる対象ではなく、見る者のすぐ傍らに迫り、視界の一部を遮る存在である。

《朝の槍ヶ岳 北穂高にて》(1962年)では、前景から中景へ幾重にも岩の稜線が重なり、その奥に槍ヶ岳の頂が置かれる。明るい斜面と青みを帯びた影が反復し、視線を奥へ導く。題名にある「北穂高にて」は単なる説明ではなく、この眺望を成立させた観察位置を示す情報である。また「朝」という時間も重要である。光と影の差が斜面を分節し、複雑な山塊のつながりを見えるものにしている。朝の光は、風景に情緒を添えるだけでなく、地形を読み取るための造形要素として働いている。

一方、《槍ヶ嶽 東鎌尾根より》(1966年)は、尖った頂を大きく据え、その下の岩肌、雪の残る谷筋、緑の斜面を近い距離で見せる。《朝の槍ヶ岳 北穂高にて》では稜線をたどって奥へ伸びた視線が、こちらでは山頂へ向かって上昇する。同じ槍ヶ岳でも、観察位置が違えば、山は遠い稜線の到達点にも、眼前に立ち上がる岩の塊にもなる。この変化は、足立が山の決まった型を繰り返したのではなく、現地で得た視点に応じて構図を選び直したことを示している。

岩峰だけではない足立源一郎の風景

「山岳画の神様」という呼び名から、足立源一郎の作品を険しい岩峰だけで想像すると、その画業の幅を見落とすことになる。大町山麓美術館の所蔵作品には、北アルプスの高所を描いた作品とともに、湖、山村、渓流、湿原、樹林帯、花の里が描かれている。山頂と山麓、岩と水、夏の緑と秋の色彩は、別々の世界ではない。足立が山を歩き、山域全体を経験するなかで出会った連続する風景である。

所蔵作品のうち最も早い制作年を持つ《春の野尻湖》(1932年)と、翌年の《朝陽の富士 河口湖》(1933年)は、水辺を介して山を眺める視点を伝える。《杏花の里 安茂里》(1935年)では、人の暮らしに近い里の季節が主題となる。《八甲田山麓初夏》(1941年)や《朝雲(西穂高にて)》(1943年)では、山岳の形だけでなく、季節と大気が風景の印象を決めている。これらの作品は、足立が早くから多様な場所と気象条件に目を向けていたことを示す。

《朝雲(西穂高にて)》では、画面下部の針葉樹、その背後の淡い雲、紫がかった遠山が重なる。岩壁を至近距離で捉えた作品とは異なり、空気を隔てた眺めが生まれている。手前の樹木は比較的明瞭であるのに対し、遠山の輪郭は柔らかい。ここで山を山らしく感じさせるのは、岩の細部だけではなく、距離によって形と色が弱まる空気の表現である。足立が記録に残した天候への細かな注意は、このような画面を理解する手掛かりになる。

《上高地の秋 明神岳》(1960年)では、水辺と樹木が前景をつくり、その背後に山が現れる。白い樹幹、黄緑色の葉、水面の青が、山岳風景の内部へ季節の変化をもたらす。高所の岩稜と山麓の景観は切り離されず、樹木と水を介して結ばれている。足立の山岳画に雄大さや険しさがあることは確かだが、それだけではない。樹林の色、水辺の広がり、雲がつくる距離も、山を経験し描くための重要な要素だった。

戦後も続いた北アルプスでの制作

足立源一郎は戦後も北アルプスを中心に登山と制作を続けた。大町山麓美術館の所蔵作品を年代順に見ると、1950年の《釼嶽》、1952年の《奥多摩の山村》、1954年の《秋の塩原 新湯より》《初夏の日光戦場ヶ原》《秋の霞澤岳》、1955年の《渓流》《上高地新秋(徳沢にて)》と、山頂部だけに限られない各地の風景が並ぶ。制作地と季節の違いを追うことで、足立が同じ山の型を繰り返すのではなく、場所ごとの地形、植生、光を観察していたことが見えてくる。

《釼嶽》(1950年)は、剱岳という厳しい山容を主題とする作品であり、足立の山岳画を代表する対象の一つである。大町山麓美術館の《釼嶽》は油彩・キャンバスの12号で、山塊の量感をまとまりある画面に凝縮している。作品名に使われた「釼」「剱」「劔」などの字形は、それぞれの作品と資料に記された表記として大切に扱う必要がある。

1959年の《槍穂高遠望》は、槍ヶ岳と穂高連峰を遠くから一つの山域として捉える題名を持つ。翌1960年の《上高地の秋 明神岳》、1962年の《朝の槍ヶ岳 北穂高にて》、1963年の《白馬嶽 麓の秋 親が原まで》、1964年の《裏尾瀬の秋 橅平より》へと続く作品群では、「遠望」「北穂高にて」「麓の秋」「橅平より」という言葉が、足立がどこに立ち、どの季節に何を見たかを伝える。題名そのものが、観察地点と時間を記録する役割を持っている。

1966年の《槍ヶ嶽 東鎌尾根より》《尾瀬原》、1969年の《焼ヶ嶽(秋の上高地)》、1971年の《槍ヶ岳》は、七十歳代から八十歳代に近づいても、足立が山岳と高原の風景を描き続けたことを示す。とりわけ《槍ヶ岳》が1971年に制作されていることは、晩年まで槍・穂高への関心が衰えなかったことを端的に物語る。若い時期の学習、欧州での研究、長年の登山と制作が、晩年の画面にも積み重なっている。

現場で得た視点を、絵画の構成へ変える

足立源一郎の現場主義は、山中で写生したという事実だけを指すものではない。現地で得た膨大な視覚情報を、鑑賞者が受け止められる画面へ組み直す力があって、初めて一枚の絵画となる。実際の山では、視線を動かせば無数の峰、岩、樹木、雲が現れる。足立はそのすべてを同じ強さで描くのではなく、近景を大きく据えるのか、稜線の重なりを見せるのか、遠山を雲の向こうへ退かせるのかを選択した。

その選択によって、鑑賞者の身体感覚も変わる。《北穂高第二尾根》の前では、岩壁が近くに迫り、限られた足場から谷をのぞくような緊張が生まれる。《朝の槍ヶ岳 北穂高にて》では、複数の稜線を越えて遠くの頂へ視線が導かれる。《槍ヶ嶽 東鎌尾根より》では、山頂を仰ぐ上昇感が強まる。これらはすべて山の絵だが、鑑賞者に与える空間の経験は同じではない。

さらに、足立の画面では時間が地形の見え方を変える。朝日が斜面を照らせば、光の面と影の面が分かれて山の構造が明瞭になる。雲や霧が谷を覆えば、見える部分と見えない部分の差が奥行きを生む。秋の樹木や初夏の湿原は、場所に季節の時間を与える。山そのものは長い時間そこにあり続けるが、画家が見る姿は一瞬ごとに変化する。足立は、変わらない地形と変化する自然条件を一つの画面のなかに共存させた。

ただし、日記に記されたある日の天候を、特定の完成作品の制作場面へそのまま当てはめることはできない。日々の行動記録と一枚の油彩画が完成する過程は、分けて考える必要がある。記録は足立が寒さや雨を意識しながら制作していたことの根拠となり、作品画像は構図と色彩を考える根拠となる。この二つを混同せずに往復することで、足立の山岳画を伝説だけで飾らず、観察と造形の積み重ねとして理解できる。

文章、翻訳、技法研究によって美術を伝える

足立源一郎は、油彩画を制作しただけでなく、近代美術を紹介する文筆家、翻訳者、啓蒙家としても大きな役割を果たした。大町山麓美術館の現行略歴には、『ドオミエ』や「クロード・モネを訪う」に関わる仕事、『山に描く』『山は屋上より』などの著書が挙げられている。欧州で見聞した美術、画家の人物像、制作技法、そして自ら経験した山を言葉によって伝えたことは、足立の画業を構成する重要な一面である。

絵と言葉は、足立にとって競い合うものではなかった。絵画は、山の形、色、空気を一つの画面に凝縮できる。文章は、移動、天候、制作の判断、画家の考えを時間の流れに沿って伝えられる。両方が残されたことによって、私たちは完成作品を見るだけでなく、その背後で画家が何を観察し、何を問題にしたかを考えることができる。『画家足立源一郎の記録:1889~1973』が今日の研究で重視されるのも、作品と生涯、登山と制作を結ぶ具体的な手掛かりを含むからである。

また、技法研究や工芸・造形指導への関心は、足立が美術を個人の才能だけで成立するものと考えていなかったことを示す。材料を理解し、手を動かす方法を学び、先人の作品を調べ、得た知識を他者へ伝える。その地道な営みが制作を支える。山岳画の力強い筆致の背後には、自然に対する感動だけでなく、長年にわたる技術と知識の蓄積があった。

晩年と絶筆《春の穂高岳》

足立源一郎は晩年まで北アルプスへ足を運び、山岳を描き続けた。大町山麓美術館の現行略歴では、晩年は一年の大半を北アルプスで過ごしたとされる。年齢を重ねても、過去の記憶や既成の型だけに頼らず、山へ行き、自らの眼で現在の姿を確かめようとしたのである。長い経験は、現場へ行かなくても描けるという理由にはならなかった。むしろ経験を重ねるほど、山が光と季節によって異なる姿を見せることを深く知っていたのだろう。

1973(昭和48)年2月末に描かれた《春の穂高岳》(長野県立美術館所蔵)が絶筆となった。同年4月1日、足立は83歳で死去した。最後の作品の主題が穂高岳であったことは、足立の生涯と画業を象徴している。青年期に京都と東京で学び、欧州で西洋美術を研究し、春陽会や日本山岳画協会の活動に関わり、文章と指導を通して知識を伝えた。その長い道の先で、なお画家の眼は日本の山岳へ向けられていた。

絶筆という言葉は、作品を特別な物語で包みやすい。しかし重要なのは、最後の一枚だけを孤立させることではなく、それ以前に続いた観察と制作の時間を考えることである。大町山麓美術館所蔵の1971年《槍ヶ岳》から、1973年の《春の穂高岳》へ至る晩年の歩みには、山へ向かい続けた画家の一貫した姿勢がある。足立は生涯を通じ、山を知っているつもりになるのではなく、その都度、目の前に現れる山を見直した。

大町山麓美術館の所蔵作品が伝えるもの

大町山麓美術館の足立源一郎コレクションは、山岳画家としての代表的な仕事と、より広い風景画家としての眼差しを同時に伝える。館の作品台帳に登録された22点は、《槍穂高遠望》《裏尾瀬の秋 橅平より》《釼嶽》《秋の塩原 新湯より》《上高地の秋 明神岳》《奥多摩の山村》《渓流》《春の野尻湖》《槍ヶ嶽 東鎌尾根より》《槍ヶ岳》《朝雲(西穂高にて)》《初夏の日光戦場ヶ原》《朝陽の富士 河口湖》《八甲田山麓初夏》《秋の霞澤岳》《白馬嶽 麓の秋 親が原まで》《杏花の里 安茂里》《朝の槍ヶ岳 北穂高にて》《北穂高第二尾根》《焼ヶ嶽(秋の上高地)》《上高地新秋(徳沢にて)》《尾瀬原》である。

この作品群では、槍ヶ岳、穂高連峰、剱岳、白馬岳、霞沢岳、焼岳といった山々に加え、上高地、尾瀬、野尻湖、河口湖、戦場ヶ原、塩原、奥多摩、八甲田、安茂里など、さまざまな地域と風景が確かめられる。また、題名には「春」「初夏」「新秋」「秋」「朝」「朝陽」「朝雲」といった季節や時間を示す言葉が多い。足立が山名だけで作品を区別したのではなく、その場所がいつ、どのような状態で見えたかを大切にしていたことが、題名の集積からも伝わる。

制作年代が1932年から1971年まで広がることも重要である。約四十年の作品を通して、一つの様式が一直線に進歩したと単純に結論づけるべきではない。近い岩壁を強調する方法、稜線の重なりで距離を示す方法、雲や樹木を介して遠山を見せる方法は、年代だけでなく、対象と視点に応じて選ばれている。コレクションを比較して見ることで、足立が生涯にわたり同じ問題を繰り返し考えながら、場所ごとに異なる答えを出していたことが分かる。

美術館で作品を見る意義は、図版や作品名だけでは伝わりにくい画面の大きさ、絵具の厚み、筆の速度、色面の関係を、同じ空間で確かめられる点にある。大町山麓美術館では、足立源一郎の山岳風景を中心とする油彩作品を収蔵・展示し、北アルプスの山麓という場所からその画業を紹介している。作品に描かれた山々と、美術館を取り巻く風土とが近接しているため、鑑賞者は絵画の内部にある光や空気を、地域の自然と重ねながら考えることができる。

足立源一郎を今見る意味

足立源一郎の作品と活動は、日本における山岳画の歴史を考えるうえで極めて重要な位置を占める。だが、その意義は「高い山を多く描いた」という一文では尽くせない。足立は西洋絵画を学び、近代日本の洋画団体の形成に関わり、技法と工芸を研究し、文章によって美術を伝えた。その総合的な経験を携えて山へ入り、自然を自らの身体と眼で観察し、絵画の構成へ変えた。山岳画は、その長い学習と実践が結晶した仕事なのである。

足立の画面に表れる山は、動かない記念碑ではない。岩壁は光によって面を変え、谷は雲に隠れ、遠山は空気の層を隔てて色を弱める。樹木は季節を示し、水面は空と山をつなぐ。そこには、山の堅固な地形と、絶えず変化する時間が同居している。画家は自然を支配せず、見えるまで待ち、描けない時には描かず、その条件のなかで最も確かな構図を探した。

この姿勢は、写真や映像によって山の姿をすぐに見ることができる今日にも、新鮮な意味を持つ。足立の作品を見ることは、名山の外形を確認することではなく、一つの場所に立ち、時間をかけて見るとはどういうことかを考えることである。山を知る人には、歩いた地形と天候の記憶を呼び起こし、山に登らない人には、画家が選んだ視点を通して高山の空間を経験させる。足立源一郎の山岳画は、観察の深さが風景の見え方を変えることを、今も静かに伝えている。

大阪で生まれ、京都と東京で学び、二度の欧州滞在を経て、日本の山岳へ向かった足立源一郎。春陽会と日本山岳画協会の活動、美術を伝える著述と指導、そして北アルプスでの長い制作は、一人の画家のなかでつながっている。大町山麓美術館の所蔵作品を通して見えてくるのは、山の特徴をよく知る画家であると同時に、山がいかなる位置、光、雲、季節のもとで見えてくるかを問い続けた画家の姿である。その誠実な眼差しこそが、足立源一郎を「山の画家」として今日まで生き続けさせている。